2013年6月25日火曜日

「火」


わたしたちの日常生活にとって欠かすことのできない「火」、これも一つ間違えると大変なことになります。火災事故などはその典型的な例でしょう。大学卒業後損害保険会社に入社したとき、最初の研修で、火を「友好火」と「敵対火」という形に分類した説明を受けた記憶があります。なかなか面白い分類方法だな、と感じたものでした。この、大切さと危険性が同居している「火」というものがどのようにして人類にもたらされたのでしょうか。残念ながら聖書にはこの点に関する記述は見当たりません。
それではギリシャ神話を辿ってみたいと思います。ギリシャ神話にも天地創造の話があります。そして人間はプロメテウスという神から造られたと記されています。更に、プロメテウスが太陽から採火する模様を次のように描写しています。「髄のあるういきょうの長い茎を取ると、通り過ぎる太陽の二輪車に近づき、灼熱の炎のなかにその茎をさしこんだ。そしてかすかに燃える火口を持って、下界にもどってきた(白水社『ギリシャ・ローマ神話Ⅰp.21』)」。
前述の通り、聖書では六日間の創造物語の中でも「火」の創造については触れられていませんが、わたしたち人間にとって重要な存在の代表的な例として描かれているのが出エジプトの物語です。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった(出エジプト記13:2122)。」
新約聖書ではみなさんご存知の通り聖霊降臨の出来事ですね。「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった(使徒言行録2:23)」聖霊なる神さまはは人間の目には見えないお方ですが炎を連想することによりなんとなくわかった気持ちにさせられるのも不思議なものではないでしょうか。
司祭 ジェローム 村上守旦