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2021年8月15日日曜日

76回目の終戦記念日に寄せて

 今日は終戦記念日と主日礼拝が重なり、礼拝の中では、世界平和のための祈りが捧げられました。

真理と平和の源である全能の神よ、すべての人の心に平和を愛するまことの愛を燃やし、国々の交わりに携わる人々に、平和を造り出す知恵を与え、主の愛を知る知識をこの世界に満たして下さい。父と聖霊とともに世々に生き支配しておられるみ子イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
礼拝の退堂聖歌は聖歌417番、Make Me A Channel Of Your Peace・フランシスコ平和の祈りでした。個人的に聖歌の中で一番好きな曲です。
世界の中ではまだ争いが絶えず、アフガニスタンではまたタリバンと体制派との争いが激しくなり、中央アジアでは民族対民族の争いも激しさを増しています。彼らは宗教は違いますが同じ人間です。すべての人間がお互いを認め、尊重しあう世の中が一日も早く訪れることを祈ります。
聖歌417番は大好きなスーザン・ボイルの歌でお送りします

2020年4月8日水曜日

聖餐式の無い聖週と復活日

3/31に主教から連絡があり、聖週と復活日を含む「当分の間」の礼拝の休止がアナウンスされました。
【主教メッセージ】緊急事態宣言を受けて

緊急事態宣言の対象となった神奈川県と千葉県においては、5月6日までの間、教役者と信徒が一堂に会してささげる礼拝および集会は、すべて休止といたします。

その後、4月7日に首相から当教会の所在地を含む、東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、大阪府、兵庫県、福岡件に緊急事態宣言が出され、集会の自粛と不要不急の外出の自粛が勧告されましたので、礼拝の休止はやむを得ない事情ではあります。

そうは言っても、聖週から復活日まで聖餐式が一度もないという事は前代未聞です。キリスト教徒にとって、復活日はクリスマス以上に大事な日、この日を信徒とともに同じ場所で祝うことが出来ないのは、とても心苦しいです。

そんな中でも、教会の庭ではいつもの年と同じように桜の花が咲き、そして散ってゆきました。
いつもの年と同じように咲いた桜の花

満開の桜の花に雪が積もった日曜日


桜が散り始め、玄関前の水たまりに花筏が出来ました

教会の鐘と桜の花が午後の日差しを受けています

朝早い時間は礼拝堂の上の十字架が朝日を受けて輝いています
フェルディナンド 竹内亮二

2020年4月2日木曜日

4月の聖句


今 月 の 聖 句・四月   
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」

(ヨハネ一二・二四)


 この三月は丸ごと新型コロナウィルス感染拡大防止のため、日曜日の礼拝ができず、四月を迎えました。礼拝休止は継続されて、いよいよ四月一二日(日)の復活祭を迎えます。
 このみ言葉は、受難の前に主イエス・キリストが言われたご自身についての言葉です。一粒の麦はそのままとって置かれたなら、一粒のままに止まるが、これが土に蒔かれたなら、一粒の麦自体は死ぬが、ここから芽が出て多くの実を結ぶ。主イエスご自身が十字架に死ぬことによって、多くの人びとが永遠の命を与えられ生かされるということが示されているのです。その根底には神の愛があります。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ伝三・十六)一粒の麦に命があって、それは死と葬りからの復活の命を力強く証したのです。
 実にこの復活の命によって、最初の教会が誕生し、キリスト教が始まったのです。世界中がコロナ禍に襲われた今年の復活祭に、神はとりわけこの「復活の命」を私たちに、示そうとされているのではないでしょうか。



3月の聖句のアップロードをサボってしまいました。2月27日に教区より3月中の主日礼拝の休止がアナウンスされ、誰も来ない寂しい教会で過ごしておりましたが、3月31日に、4月5日以降も当分礼拝の休止がアナウンスされました。来週から聖週~復活祭という一年で最大のイベントを迎えますが、このような時に信徒の皆さんを迎えることが出来ないのは大変心苦しいことです。しかし、三原司祭が書かれているように、
世界中がコロナ禍に襲われた今年の復活祭に、神はとりわけこの「復活の命」を私たちに、示そうとされているのではないでしょうか。
と心に刻み、復活祭を迎えたいと思います。
そんな中、教会の桜は見頃を迎え、先週の雪の中でもきれいな花を見せてくれていました。





フェルディナンド 竹内亮二 

2019年4月14日日曜日

聖週に入りました。


「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:5,6)













今日は復活前主日(棕櫚の祝日)です。聖餐式では主のエルサレム入城を記念して、庭の花吹雪たけなわの桜の木の下に集合し、十字架と棕櫚の先導で聖堂に行進して入場しました。
また、三原司祭からイースターメッセージが配布されました。



今日から聖週に入り、火曜日からは毎日聖餐式が行われます。

4月16日(火)復活前火曜日 聖餐式 10:00
4月17日(水)復活前水曜日 聖餐式 10:00
4月18日(木)聖木曜日   聖餐式 19:00
      (聖餐制定の記念と洗足)
4月19日(金)聖金曜日   聖餐式 12:00
      (受苦日:3時間礼拝 十字架上七聖語と祈り)
4月20日(土)聖土曜日   聖餐式 19:00
       復活徹夜祭(復活のろうそく祝福と聖餐)
4月21日(日)復活日(イースター)
       聖餐式 8:00 11:00
なお、21日(日)は10:00から日曜学校があり、その後イースターエッグ探しがあります。


2019年1月7日月曜日

今月の聖句(1月)

今月の聖句(1月)


三原先生になってから週報のフォーマットが変わり、裏側の真ん中に月々の聖句が掲載されるようになりました。1月の聖句は「主よ、朝に私の声を聞いてください。朝が来る度に、あなたに向かって身を整え、待ち望みます。(詩編5:4、聖書協会共同訳聖書)」です。かいてあるように聖公会聖歌集15番、来る朝ごとに」にも歌われているものです。この聖歌、実は立教学院卒業生にとっては、朝礼の時に歌う歌として、殊更に思いで深いものです。
さらに、この週報が配布された1月6日は顕現日で歌われた聖歌111番は「星をしるべに博士が遠く」。メロディは「来る朝ごとに」と一緒です。
三原先生はお茶目な人なので、こんなサプライズも用意してくれています。
フェルディナンド 竹内亮二

2015年1月21日水曜日

松戸聖パウロ教会が松戸伝道所として認可を受けてから今年で40年を迎え、去る12日には記念礼拝も行うことが出来ました。
 それにあわせて出来上がってきた40周年の記念誌が「いつも喜んでいなさい」です。テサロニケの信徒への手紙から選んだこの聖句が、聖パウロ教会の大元といってもいいかもしれません。



ソロモン 伊藤雅彦



2014年2月15日土曜日

光


顕現後第6主日の福音書には「あなた方は世の光である(マタイによる福音書5:14)」という聖句が読まれました。興味深い事に、ヨハネによる福音書ではイエスさまご自身が「わたしは世の光である(8:12)」と言っておられます。ではイエスさまとわたしたちは全く同じ存在なのでしょうか。そのようなことはあり得ませんね。
この二つの聖句を並べて考えるとき一つのヒントになるのが「太陽」と「月」の関係ではないかと思います。光という言葉で一番に連想させられるのは何と言っても太陽でしょう。また太陽を連想すると、同時に思い浮かぶのが月でしょう。わたしが一時生活していたメキシコ・シティの郊外にある古代遺跡に「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」というのがありましたし、旧約聖書の詩編にも太陽と月がセットで記述されているところが何か所もあります(72編5節,121編6節他)。しかし、このように常に一対をなして語られる太陽と月には根本的な違いがあることに既にみなさんお気づきだと思います。太陽は自ら光を発出しているのに対して、月は自ら光を発出している訳ではありません。太陽の光を反射して、その太陽の明るさを地球にもたらしているだけなのです。
このように見ていくと、真理の光を輝かしておられるのはイエスさまのみであって、わたしたち人間は自分自身では決して真理の光を輝かせることができないのだ、との気づきを与えられます。イエスさまの真理の光をわたしたちがきちんと反射させること、このことこそが、神さまがわたしたちに託されていることなのではないでしょうか。万が一にも自分自身が光の源を持っていると考えるならば、その信仰は主の栄光を現すことではなく、自分自身を称賛してもらうことを求めることに他ならないのではないかと思います。主の栄光を現すことのみに専念いたしましょう。
(2月11日 北総宣教協議会主催信徒修養会説教より)
司祭 ジェローム 村上守旦

2013年12月29日日曜日

「妨げられる」ということ


ホテルで朝食を摂るために部屋から出ると、時々“DO NOT DISTURB”という札が掛けられているのを見ます。部屋のお掃除をしてくださる方に対する「わたしの安眠を妨げないでください」という意味のメッセージだと思います。何にも妨げられることなく朝寝坊することの快感はだれでも経験していることと思います。
しかし、もし牧師の執務室に同じ札が掛けられていたとするならば、皆さんはどのように思われますか。「また昼寝か」とは思わなくても「何か難しい考え事をしているのかな」「ぎりぎりで説教の原稿を書いているな」さまざまだと思います。そして、中には遠慮して声をかけずに帰ってしまう方もあるかもしれません。でも、もしも牧師が自分で「大切な仕事」だと思って、他の人に妨げられることなく仕事に集中したいと考えているとしたら、これは大変な間違いであると思います。その時その時の「大切な仕事」は牧師が判断するのではなく、神様が判断されることなのだと思います。ドイツの神学者ボンヘッファーという人は次のように述べています「わたしたちは、神によって仕事を中断させられる用意がなければならない。神は、わたしたちに、その要求と願いとを持った人たちを差し向けられることによって、常に繰り返して、まさに日ごとに、わたしたちの歩む道と計画を妨げられるであろう。」新教出版社・森野善右衛門訳『共に生きる生活P.122』
信徒1人1人が牧師に相談したいこと、これにまさって重要、緊急な仕事はないと言っても過言ではありません。どうかいつでも牧師の仕事を妨げてください。大歓迎です。
司祭 ジェローム 村上守旦

主日礼拝
1月12日(日)顕現後第1主日
1月19日(日)顕現後第2主日
1月26日(日)顕現後第3主日
2月 2日(日)被献日
2月 9日(日)顕現後第5主日
 2月16日(日)顕現後第6主日
 2月23日(日)顕現後第7主日
祝日礼拝
1月25日(土)使徒聖パウロ回心日
2月24日(月)使徒聖マッテヤ日

2013年11月28日木曜日

さ・つ・ま・い・も


先日思わぬ差し入れを頂戴いたしました。その日、隣の保育園では年中行事である「焼き芋会」を楽しそうにやっていたのは教会の庭から拝見していたのですが、それが終わってからしばらくすると園長先生がビニール袋を下げて訪れ「ほんのおすそ分けです」と言って焼き芋をプレゼントしてくださいました。この保育園とは普段あまりお付き合いがありませんが、教会のバザーの日は毎年保育園の駐車場をお借りしており、ご婦人の有志がそのお礼にケーキを持参しております。もしかしたら差し入れはそのお返しの意味があったのかも知れません。
その日の昼食は決まりです。ただ、のどに詰まってもいけないと思い、近くのコンビニで牛乳を1パック買ってきました。場所は離れていても今日のお昼ご飯はあの園児たちと同じなんだろうなと思いつつおいしく頂きました。
ところで私にとっては「さつまいも」はあまり良い思い出ではありません。戦中生まれのわたしは子供時代にいやというほどさつまいもを食べて育ったのですが、時節柄現今のようなおいしいものではありませんでした。いくら丁寧に焼いてもガリガリなもの、スジばかりでどうにもならないもの、などばかりでした。当時の銘柄として記憶しているのは「オキナワ」「ノウリン」など、そして色の白い「タイハク」というのもあったようです。これはほかの銘柄に比べて甘みはあったのですが、いつ食べてもベチャベチャ。そんな中、親同士で「キントキ」というのはうまいらしいと話していたのをうっすらと記憶していますが、当時この「キントキ」を口にしたことは一度もなく、まさに幻のさつまいもでありました。そして「代用食」という言葉、今では死語に近いかもしれません。わたしにとっては「さつまいも」と「代用食」はほとんど同義語です。
このような訳で成長してからは、さつまいもは敬遠するようになっていったと思います。あまり楽しくない思いでから半世紀以上経過し、他の農産物同様品種改良を続け、さつまいももずいぶんおいしいものになったのだなあと感慨にふけりながらその日の昼食を頂いたものでした。

集会案内
12月21日(土)三教区合同プロジェクト報告会
12月22日(日)迎えようクリスマス愛餐会
12月24日(火)キャロリング他
司祭 ジェローム 村上守旦

2013年11月1日金曜日

落ち葉の季節

今年は台風による豪雨が続いたせいでしょうか、すっきりした秋空が少なかったように思います。そしていよいよ落ち葉のシーズンを迎えます。教会の敷地内だけでも榎の大木が二本と桜の大木が一本あり、隣の敷地にはわたしが名前を知らない落葉樹が何本もありますから、それらがすべて葉を落とすと庭は落ち葉だらけになります。でも、信徒の方々が目につかない形でお掃除の奉仕をしてくださいますので助かります。
落ち葉の掃除というとある話を思い出します。ある教会に老司祭ご夫妻が住んでいました。このシーズンになると必ずご夫妻で朝早く起き、敷地内だけでなく、教会に接する道路までもきれいにお掃除をされていました。付近の方もそれをよくご存じの様子でしたが特に感謝やねぎらいのの言葉をかける人はいなかったようです。ある朝、老司祭が掃除をしながら独り言のように「近所の人も手伝ってくれるといいのに」と言ったその瞬間、お連れ合いが一喝されました。「あなた、そんな気持ちでやっているなら明日から掃除はやめなさい!」と。これには老司祭も完全に参ったとのことです。

司祭職にあるものは当然のことながら主日の礼拝で説教をいたします。多分「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはいけない(マタイによる福音書6:3)」の個所に関する説教もしたことでしょう。でも司祭といえども人間です。心の片隅にはやはり近所の人も協力してくれるとありがたいのだが、という思いもあったのでしょう。すごいのはお連れ合いでした。このような光景はもしかしたらどの聖職の家庭にもみられることなのかも知れません。
司祭 ジェローム 村上守旦

2013年8月12日月曜日

自然間の相克


異常気象も毎年ひどくなるように感じられます。これもメディアによれば人為的な要素が強いとのことです。小さな日本列島にも拘わらず、西日本では猛暑、東北地方では集中豪雨といった状況です。
今年、関東地方では7月の上旬に梅雨明けが宣言されました。近年にない早さだとか。しかしこれは自然界の中でも「気象」という限られた部分の現象にすぎません。気象以外の面では例年通りの自然が保たれていたように思います。十株ほどある紫陽花は強い日照りの中でも「まだ私の時期は終わっていませんよ」と主張するがごとくに鮮やかな花を咲かし続けていました。一方、猛暑の中で物足りない一面もありました。真夏の象徴とでも言えるはずの、蝉の鳴き声が全く聞こえませんでした。こちらは地中で「まだ僕の出番ではないよ」とでも言っているようでした。教会の庭でも自然そのものが戸惑っているように見受けられました。自然そのものが異常事態に順応しかねているようです。例年の梅雨明けは7月の20日前後で、このころになると今年も紫陽花の花はしぼみ、蝉の大合唱が始まりました。植物も動物もそれぞれ自分のペースを守っているのだなと感じた次第です。
今回のタイトルとは若干離れるかもしれませんが、わたしたちは多くの自然現象から季節の移り変わりを感じ取ることができます。雪が溶ければ春になる、といったことが典型的な例でしょう。でも、気を付けないとちょっとした先入観に支配される場合があるように思えます。うぐいすが鳴くと春を感じ、蝉の仲間でもひぐらしの鳴き声は秋の訪れを感じます。しかし、原稿を書いているこの時、教会の庭からは、うぐいすとひぐらしが二重奏を奏で、わたしの心を和ませてくれています。
司祭 ジェローム 村上守旦

2013年6月25日火曜日

「火」


わたしたちの日常生活にとって欠かすことのできない「火」、これも一つ間違えると大変なことになります。火災事故などはその典型的な例でしょう。大学卒業後損害保険会社に入社したとき、最初の研修で、火を「友好火」と「敵対火」という形に分類した説明を受けた記憶があります。なかなか面白い分類方法だな、と感じたものでした。この、大切さと危険性が同居している「火」というものがどのようにして人類にもたらされたのでしょうか。残念ながら聖書にはこの点に関する記述は見当たりません。
それではギリシャ神話を辿ってみたいと思います。ギリシャ神話にも天地創造の話があります。そして人間はプロメテウスという神から造られたと記されています。更に、プロメテウスが太陽から採火する模様を次のように描写しています。「髄のあるういきょうの長い茎を取ると、通り過ぎる太陽の二輪車に近づき、灼熱の炎のなかにその茎をさしこんだ。そしてかすかに燃える火口を持って、下界にもどってきた(白水社『ギリシャ・ローマ神話Ⅰp.21』)」。
前述の通り、聖書では六日間の創造物語の中でも「火」の創造については触れられていませんが、わたしたち人間にとって重要な存在の代表的な例として描かれているのが出エジプトの物語です。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった(出エジプト記13:21~22)。」
新約聖書ではみなさんご存知の通り聖霊降臨の出来事ですね。「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が別れ別れに現れ、一人一人の上にとどまった(使徒言行録2:2~3)」聖霊なる神さまはは人間の目には見えないお方ですが炎を連想することによりなんとなくわかった気持ちにさせられるのも不思議なものではないでしょうか。
司祭 ジェローム 村上守旦

2013年5月19日日曜日

教会にエンジェルが舞い降りました


去る5月17日の朝、突然6人のエンジェルが舞い降りてきました。かわいいエンジェルたちでした。一時間ほど楽しそうに過ごして帰っていきました。わたしにとっても本当に楽しいひと時でした。
実は、その一週間くらい前に近くにある市立高木小学校の先生から電話を受け、子供たちに見学させてほしいとのご依頼があったのです。さらに丁寧なご依頼状も届けてくださいました。ですから冒頭に記した「突然」というのは正確ではありません。高木小学校3年生の6名でした。見学の主旨は「総合的な学習の時間として、高木小学校区の特色ある施設をグループに分かれて見学し、お互いに紹介し合う」という活動とのことでした。
生徒6名と引率者として濱崎教頭先生、保護者の方1名の総勢6名でした。事前に質問事項をメモしていたので、こちらからの一方的な説明はできるだけ避け、子供たちの質問に沿って話をすることにしました。子供たちの一番の関心事は十字架にありました。教会内にいくつ十字架があるか一生懸命数えていました。
初めの質問は「牧師さんのお仕事ってどんなことですか」でした。まさに核心に触れる質問です。主日礼拝の説明に苦労しました。今の日本でも当たり前の、毎週日曜日が休日なのは教会が起源であることも交えてお話しました。クリスマスが主イエスさまの誕生日のお祝いであることも初めて知ったようです。ついでにイースターのことも話しました。そこで十字架の意味も説明できました。べストリーにあった十字架の中にイエスさまのお姿のあるものが一つあり、子供たちはすぐに私の説明を理解したようです。最後に聖書を見せ、これが世界の教会で一番大切にしている本であることも話しました。聖書の「聖」という字は3年生ではまだ習っていないとのことでみんな一生懸命に、少し苦労しながらメモをしていました。でも最後まで関心が薄れなかったことは十字架の数でした。「牧師さんは教会の中にいくつ十字架があるか知っていますか?」との質問に対し、しょうがないのでピューリフィケイター、ラバボタオルなども見せ「こんなにあるから数は分からないよ」との答えで許してもらいました。珍問もありました。曰く「牧師さんはお化けを見たことがありますか?」聖霊論にすり替えて噛み砕いて話したつもりですが多分理解できなかったでしょう。
特にうれしかった事は、多くの子供たちが「また来てもいいですか」と言ってくれたことです。返事は決まっています。ぬかりなくバザーの宣伝もしておきました。
おまけがつきました。夕方玄関のチャイムが鳴り、出てみるとあのエンジェルのうちの三人がいるではありませんか。用件はというと、26日(土)に運動会があり、そのポスターを作ったので貼らせてもらいたいとのことでした。断れるわけがありません。室内の掲示板に2枚、道路に面した屋外の掲示板に1枚貼りました。お気づきの方もおられたかもしれません。かわいいエンジェルに免じてご容赦くださるようお願いいたします。
司祭 ジェローム 村上守旦

2013年3月9日土曜日

イースター・シーズン


今年もまた、暖かい日差しと共にイースター・シーズンが近づいてまいりました。今は謹んで主のご復活を待たなければならない時期であることは分かっているのですが、なんとなくいそいそとした気分になってしまうのはわたしだけでしょうか。
現代のように教会歴が定まってしまっていると、ご復活の喜びは感じられても、ご復活の驚きが感じられないのは些か残念なことでもあります。やむを得ない事なのでしょうが。イエスさまの直接のお弟子さんたちは。イエスさまに再会した時喜びと同時に、大きな驚きがあったことは容易に推察できます。
十字架の上で悲惨な死を遂げられたイエスさまとはもうどんなことがあってもお会いできないのだという絶望のうちに、多くのお弟子さんたちは散りじりになって、自分たちの故郷に帰って行ったと思われます。でも、その絶望の極み、落胆の極みにあるお弟子さんたちの所に、イエスさまはすぐにそのお姿を現れされたのでした。ある人々に対しては、すぐにご自身であることが分かる形で、またある人々に対しては分からない形で、すべての人びとに寄り添ってくださいました。ルカによる福音書では、“エマオ”という村に向かって歩いていた二人のお弟子さんに寄り添って、ともに歩まれました。しかも同じ方向に行く旅人のようにふるまわれたのでした。決してご自身を目立たせることなく、彼らの経験したあの出来事について敢えて彼らに質問し、振り返りの機会を与えてくださったのです。そしてイエスさまが彼らから離れられたとき、ようやくイエスさまであることに気づき、いかに自分たちの心が燃えていたかを気付かせてくださったのです。
ご復活のイエスさまは今でも常にわたしたちと共に歩んでくださっています。特にわたしたちが悲しみの中にあるとき、苦しみの中にあるとき、イエスさまは励ましと慰めとを与えてくださいます。イースターの日には世界のすべての人びとと共に主のご復活をお祝いいたしましょう。

3・4月の教会歴と行事予定
主日礼拝  
3月24日(日)復活前主日(棕櫚の日曜日)
3月31日(日)復活日
4月 7日(日)復活節第2主日
4月14日(日)復活節第3主日
4月21日(日)復活節第4主日
4月28日(日)復活節第5主日
祝日礼拝
3月25日(月)復活前月曜日
3月26日(火)復活前火曜日
3月27日(水)復活前水曜日
3月28日(木)聖木曜日
3月29日(金)聖金曜日(受苦日)
3月30日(土)聖土曜日
4月 1日(月)復活後月曜日
4月 2日(火)復活後火曜日
4月 3日(水)復活後水曜日
4月 4日(木)復活後木曜日
4月 5日(金)復活後金曜日
4月 6日(土)復活後土曜日
4月 8日(月)聖マリヤへのみ告げの日
4月25日(木)福音記者聖マルコ日
※祝日の聖餐式は午前10時からですが、聖木曜日と聖土曜日は午後6時からです。また、聖金曜日の受苦日礼拝は12時より柏聖アンデレ教会にて行います。お間違えのないようお願いいたします。
司祭:ジェローム 村上守旦

2012年12月22日土曜日

生かされるということ


わたしたちキリスト者は一人一人の「命」が神様から与えられたのだと考えています。このことを疑うキリスト者はいないでしょう。創世記には、神さまは土で人の形を造られた後「その鼻に命の息を吹き入れられた(2:7)」と記されています。このことは、単なる物体が神さまによって命を頂いたということを意味するのだと思います。神さまによって生かされたとも言えましょう。神さまの創造の働きとは、物体に命を与えるということ、すなわち生かすということなのかも知れません。
一方わたしたち人間はどうなのでしょうか。「神は御自分にかたどって人を創造された(1:27)」と記されています。神の似姿としての存在です。でもそれは姿形ではありません。神さまは霊的な存在ですから体を連想することはできません。姿形ではなく働きとして神さまに似ることです。前に述べたように神さまはわたしたちを生かしてくださっているのですから、わたしたち一人ひとりも隣人を生かすように働くことが求められているのです。日常生活の中で出会う多くの隣人を常に生かす働きをする、このことこそが宣教だと思います。神さまに生かされそして隣人を生かす、このことによって真の意味の平和が実現するのだと思います。

司祭 ジェローム 村上守旦

12・1月の教会歴と行事予定
主日礼拝  
12月16日(日)降臨節第3主日
12月23日(日)降臨節第4主日
12月30日(日)降誕後第1主日
1月 6日(日)顕現日
1月13日(日)顕現後第1主日・主イエス洗礼の日
1月20日(日)顕現後第2主日
1月27日(日)顕現後第3主日
2月 3日(日)顕現後第4主日

祝日礼拝
12月24日(月)クリスマスイヴ
12月25日(火)降誕日
12月26日(水)最初の殉教者聖ステパノ日
12月27日(木)福音記者聖ヨハネ日
12月28日(金)聖なる幼子の日
 1月 1日(火)主イエス命名の日
 1月25日(金)使徒パウロ回心日
 2月 2日(土)被献日

集会案内
12月23日(日)迎えようクリスマス愛餐会
12月24日(日)スナック・パーティ
12月25日(火)クリスマス祝会
 1月16日(水)聖書勉強会
1月18日(金)東関東教会協議会
 1月23日(水)教区婦人会総会
 1月27日(日)教会員総会
 1月31日(木)北総宣教協議会
 2月 6日(水)聖書勉強会






2012年11月2日金曜日

バザーが終わりました


雨にも負けず、今年もバザーが盛大に行われました。多くの方がそれぞれのタレントを発揮して十分楽しめたと思います。お疲れ様でした。
会場設営には仰天しました。一週間前から当日の天気は雨との予報で、設営も雨ヴァージョンとのこと、所要時間が晴れヴァージョンの時の二倍はかかるとのことでした。いつも何気なく見ていた二本のポールが巨大なテントを支える柱だったとは思いもかけないことでした。
当日の聖餐式の短い勧めでもお話しましたが、疲労を少しでも軽減する有効な手立てを以下にご紹介したいと思います。
その昔、かの有名なノートルダム寺院の建設現場でのことです。3人の方にお話を聞いた人がいたそうです。1人の人は次のように答えました。「重い、重い石を運んでいるんだよ。毎日だから疲れの取れる間がないよ。」とぼやきました。別の人は「家族のために働いているのさ。今日の賃金で夕食の材料を買って帰るんだ。家族そろって夕食のひと時を過ごせば疲れもすっ飛んでしまうね。」もう一人の人は胸を張って堂々とこのように答えました。「わたしはノートルダム大聖堂を建設しているのさ。だから全く疲れなんか感じないね。」同じ労働をするにしても気持ちの持ち方で疲労の度合いが違ってくるのかも知れません。
なお、この話はアルフォンス・デーケン先生の書いた『よく生き よく笑い よき死と出会う』という著書の、P.139~140を参考にしつつ次若干アレンジしたものです。
司祭 ジェローム 村上守旦

2012年8月11日土曜日

被災地を訪ねて


 去る6月4~5日の二日間、聖公会神学院校友会(同窓会)の主催で行われた東日本大震災の被災地を見学してきました。今回ほど「百聞は一見にしかず」という諺を身に染みて感じたことはありませんでした。これまで何度もテレビなどで現地の映像を見てきたのですが、何ともすさまじい状況に圧倒され続けました。その行程のほとんどは車の中からの見学でしたが、まさにゴースト・タウンと化した街、しかも殆ど基礎だけが残された荒涼とした荒地、その中にポツンとそびえている大きなビル、近づいてみると躯体だけが残りとても建物とは言えない姿、ある所では自動車の残骸の山、その一角で黙々と瓦礫の撤去作業をしている人々、大型の機器で大量の瓦礫の運搬をしている人がいるかと思えば、極少量のものを手作業で分類しながら黙々と袋詰めにしている人々、今でもその光景はわたしの目に焼き付いています。当初は、年も年だしボランティア活動も思うにままならない中で「とにかく来てお金を落として行ってください」との言葉に甘えようかな、との単純な気持ちで参加したのですが、今振り返っても有意義な旅であったと思います。今回は陸前高田市、南三陸町が中心で、原発事故による被災地にはいかれませんでしたが、ここはまたまったく別の意味で大変な様子です。郡山聖ペテロ教会の牧師である越山健三司祭さんの言葉が頭に焼き付いています「礼拝の説教で命の話ができない」。敢えてこのご発言の背景は申しません。これがどのような意味なのか皆さんも考えてみてください。
司祭 ジェローム 村上守旦

2012年7月1日日曜日

絶対と相対

わたしの若かった頃、乗用車で「コスモ」という車が発売されました。たいそう人気がありましたが、どう言う訳か私はあまり好きではありませんでした。ある日、会社の仲間たちとこの車のことが話題になり、ほとんどの人が「あれは良い」ということになりました。わたしは自分の思いを素直に述べたのですが、ある先輩から痛烈な批判を受けました。「あの車の良さがわからないとは、お前の美的感覚を疑う」と。その人は、自分の美的感覚を絶対的なものと信じていたのだと思います。反論はしませんでしたが、趣味・趣向の問題には、絶対ということはないと今でも思っています。
好みの問題は別として、信仰の問題はどうでしょうか。キリスト教は長い間「教会の外に救いなし(教父キプリアヌス)」と信じてきました。明治時代に日本に来た宣教師の人々も基本的にはこのような態度だったと思います。キリスト教こそが絶対であると信じきっていたのでしょう。
カトリック、プロテスタントとも、この姿勢は1960年代から変化の兆しが見えてきます。そして現代、キリスト教徒でも他の宗教が持っている霊的価値を否定する人はほとんどいないと思います。いわば、諸宗教名の中でキリスト教も相対化しているといえるでしょう。一方で、諸宗教の中の一つとしてのキリスト教という考えは受け入れても、信仰が相対的であると認められますか。信仰とは私たち一人一人にとって生命をかけた問題です。趣味ではありません。絶対と相対、皆さんもそれぞれどのように考えるかを整理してみると面白いのではないかと思います。
司祭 ジェローム 村上守旦

2012年6月3日日曜日

春の雨

「春に三日の晴れなし」と言われます。移動性の高気圧と低気圧が次々と通り過ぎていくためなのだそうです。しかも、今年は北の寒気団がいつまでも日本上空に居座り、例年にない不安定な大気の状態が続きました。従来は、夏の専売特許に近かった積乱雲が発生し、そして竜巻などという日本には縁遠いと思われていた物騒なものが発生し、多くの被害をもたらしたこと、いまだに記憶が鮮明に残っていることと思います。
 このように大災害をもたらす雨は困りますが、しとしとと降る雨はまた鬱陶しくて、心も湿りがちになります。五月晴れの日は心もウキウキします。
 でも、
今年は少し違いました。激しい雨はともかく、しとしとと降る雨を心待ちにするようになったのです。教会の庭に芝生を再生しようとの話が誰からともなく持ち上がりました。信徒以外の方々も含め、ある方は早速ホームセンターから芝床を買ってこられ、またある方は農作業用の小型耕運機で耕しを始めました。今までの芝が残っている部分は生かしながら、名も知らない種々の草(敢えて雑草とは言いません) の生えている部分を新しい芝床に張り替えました。どなたかが「これから大変なのが水遣りだ」と言います。このような訳で雨を待つ心境になった次第です。当初は茶色だった芝床が少しづつ新芽を延ばして行きます。毎朝が楽しみになりました。
 しかしある日大変なことに気付かされました。芝生そのものよりはるかにその他の草の成長のほうが早いのです。別の方の忠告が思い出されました。曰く「芝生をきれいに育てる最大の仕事はその他の草を常に取り除くことだ」と。
 同時に、聖書の箇所を噛みしめつつ小悟りを日課としている今日この頃です「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる(マタイによる福音書5:45)」
司祭:ジェローム村上守旦

2012年5月20日日曜日

主人となり、客人となること

松戸聖パウロ教会に派遣されて、あっという間に一年が過ぎてしまいました。4月1日に赴任した時、数名の信徒さんが来て下さり、「ようこそいらっしゃいました」とのご挨拶を頂戴しました。この挨拶は通常主人が客人を迎える時のものだと思います。当初は右も左もわからず、すべてのことを色々な信徒さんにお伺いしていましたから、まさに客人としての域を脱していなかったのかも知れません。でも、そのうちに日曜日に信徒さんをお迎えするに当たって、わたしの方から「ようこそ」とお声をかける自分に気づきました。無意識のうちに主人としての口のきき方になっていきました。
お弟子さんたちの、ご復活されたイエス様との出会いの中に「エマオへの道」のお話があります。二人のお弟子さんがエルサレムからエマオという村に帰る途中、復活されたイエス様が同行された物語です。初めは、彼らはそれらがイエス様をお誘いして「一緒にお泊りください」と声をかけ、イエス様はその申し出をお受けになります。しかし、食事の場面になると、不思議なことにイエス様がご自身のパンを裂いて主人であるはずの二人にお渡しになります。いつの間にか主人と客人の立場が逆転していることに気づかされます。
このことは、わたしたちの教会の中でも起こり得ることではないかと思うのです。牧師と信徒の間のみならず、信徒同士の関係でも、ある時は主人になり、ある時は客人になる、こういう関係が安心できる共同体のあり方でもあるのかな、と感じる昨今です。今後ともよろしくお願い申し上げます。
司祭:ジェローム村上守旦