2020年12月9日水曜日

12月の聖句

 12月の聖句は

「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ1・38)

です。クリスマスのストーリーの中でもいちばん有名な天使ガブリエルによる受胎告知のシーンです。マリアが神の意志をありのままに受け入れ、受容したことにより、イエスは誕生し、クリスマスの物語が始まったのです。


2020年11月1日日曜日

11月の聖句

 11月の聖句は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)です。日本のことわざで言うと、「情けは人の為ならず」のような話ですね。誰にでも優しくできる人には神様も優しくしてくれるという話です。ちなみにこの福音書の続きは「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」と締められています。こちらは「因果応報」のようなものを感じます。




2020年10月4日日曜日

10月の聖句

 

10月の聖句は「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まなければならない」(ルカ13・33)です。
最近になって、芸能人の自死が相次ぎ、普段は命のあり方など気にせずに暮らしている人も、命とは何かを考えさせられているのではないでしょうか。
しかし、自分が天使に守られていて、導かれていると思えば、迷うことも少しは減るのではないでしょうか。


2020年9月6日日曜日

9月の聖句

 9月の聖句は
「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」
(マタイ20:14)です。

聖書には時々このような経済的には理不尽なたとえ話が出てきます。放蕩息子のたとえ話(ルカ15:11)などもそうですね。需要と供給、労働と報酬との間の経済的原則を全く無視したたとえ話が登場します。
神様のみ心は、私たちの思いをはるかに超えた、慈しみの心であり、報酬ではなく「恵み」なのです。
そう考えると、あえて経済的原則を無視したたとえ話が出てくることにも納得ができるのです。

2020年7月7日火曜日

7月の聖句


7月の聖句は「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マタイ9・13)です。
端的に言えば、「完全な方はどうぞご遠慮ください。ここは自分が罪びとであることを認め、恵みを必要とし、成長したいと願っている人たちのための場所です」ということです。神は正しい人よりも罪の重さに苦しむ人に寄り添うと書かれています。そして、教会もそんな罪の重さに苦しむ人に寄り添う人に寄り添う場所でありたいと思うのです。

2020年5月28日木曜日

礼拝再開

6月7日の三位一体主日から、礼拝が再開できることになりました。
【教区主教メッセージ】「主日礼拝再開に向けて」
まだ愛餐会は出来ませんし、陪餐も一種陪餐、また、通常より1回の聖餐式に出席する人数が少なくなるよう、2回の聖餐式に人数を散らばせなくてはいけないなど、色々な制限はありますが、教会に集うことが許されるということだけでも感謝です。
3月から3ヶ月間の礼拝の無い教会生活の中、ある人は、平日に教会の庭の草を刈り、ある人は毎週祭壇化を絶やさないように生けてくださり、ある人は毎週の聖歌の奏楽を動画で届けて下さいました。
三原先生も毎週の説教を動画にしてくださいました。それらを日曜日の朝に信者のグループラインに配信できたことで、少しは教会への繋がりを絶やさないことのお手伝いが出来たのではないかと思っています。
来月からの礼拝再開が楽しみです。











フェルディナンド 竹内亮二

2020年4月30日木曜日

5月の聖句

5月の聖句は「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる」(マタイ24:13)です。
ついに4月は一度も主日聖餐式が行えずに月が終わってしまいました。三密回避と自粛によって、人と人の直接の繋がりが失われる事によって、ややもすると心と心の繋がりも破壊され、憎しみと嫉みに心が支配されてしまいそうになります。しかし、悪魔に心を売ること無く、耐え忍び、愛することを忘れずにいれば、最後には必ず救われるのです。先の見えない不安の中で、負けそうになりますが、今こそ神を信じて耐え忍びましょう。

フェルディナンド 竹内亮二

2020年4月8日水曜日

聖餐式の無い聖週と復活日

3/31に主教から連絡があり、聖週と復活日を含む「当分の間」の礼拝の休止がアナウンスされました。
【主教メッセージ】緊急事態宣言を受けて

緊急事態宣言の対象となった神奈川県と千葉県においては、5月6日までの間、教役者と信徒が一堂に会してささげる礼拝および集会は、すべて休止といたします。

その後、4月7日に首相から当教会の所在地を含む、東京都、神奈川県、千葉県、埼玉県、大阪府、兵庫県、福岡件に緊急事態宣言が出され、集会の自粛と不要不急の外出の自粛が勧告されましたので、礼拝の休止はやむを得ない事情ではあります。

そうは言っても、聖週から復活日まで聖餐式が一度もないという事は前代未聞です。キリスト教徒にとって、復活日はクリスマス以上に大事な日、この日を信徒とともに同じ場所で祝うことが出来ないのは、とても心苦しいです。

そんな中でも、教会の庭ではいつもの年と同じように桜の花が咲き、そして散ってゆきました。
いつもの年と同じように咲いた桜の花

満開の桜の花に雪が積もった日曜日


桜が散り始め、玄関前の水たまりに花筏が出来ました

教会の鐘と桜の花が午後の日差しを受けています

朝早い時間は礼拝堂の上の十字架が朝日を受けて輝いています
フェルディナンド 竹内亮二

2020年4月2日木曜日

4月の聖句


今 月 の 聖 句・四月   
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ。」

(ヨハネ一二・二四)


 この三月は丸ごと新型コロナウィルス感染拡大防止のため、日曜日の礼拝ができず、四月を迎えました。礼拝休止は継続されて、いよいよ四月一二日(日)の復活祭を迎えます。
 このみ言葉は、受難の前に主イエス・キリストが言われたご自身についての言葉です。一粒の麦はそのままとって置かれたなら、一粒のままに止まるが、これが土に蒔かれたなら、一粒の麦自体は死ぬが、ここから芽が出て多くの実を結ぶ。主イエスご自身が十字架に死ぬことによって、多くの人びとが永遠の命を与えられ生かされるということが示されているのです。その根底には神の愛があります。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ伝三・十六)一粒の麦に命があって、それは死と葬りからの復活の命を力強く証したのです。
 実にこの復活の命によって、最初の教会が誕生し、キリスト教が始まったのです。世界中がコロナ禍に襲われた今年の復活祭に、神はとりわけこの「復活の命」を私たちに、示そうとされているのではないでしょうか。



3月の聖句のアップロードをサボってしまいました。2月27日に教区より3月中の主日礼拝の休止がアナウンスされ、誰も来ない寂しい教会で過ごしておりましたが、3月31日に、4月5日以降も当分礼拝の休止がアナウンスされました。来週から聖週~復活祭という一年で最大のイベントを迎えますが、このような時に信徒の皆さんを迎えることが出来ないのは大変心苦しいことです。しかし、三原司祭が書かれているように、
世界中がコロナ禍に襲われた今年の復活祭に、神はとりわけこの「復活の命」を私たちに、示そうとされているのではないでしょうか。
と心に刻み、復活祭を迎えたいと思います。
そんな中、教会の桜は見頃を迎え、先週の雪の中でもきれいな花を見せてくれていました。





フェルディナンド 竹内亮二 

2020年2月2日日曜日

2月の聖句

2月の聖句は
「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛する」(イザヤ43.4)
です。ちょっと分かりにくい表現なのですが、新共同訳では「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」となります。どんな人でも神様はその人の生きている価値を認めて、貴く思って愛してくださっているというメッセージです。
上の司祭のメッセージにある「君は愛されるために生まれた」(本田路津子版)は下のリンクで聞くことができます。


2020年1月2日木曜日

1月の聖句

1月の聖句は
「主の恵みは朝ごとに新しい。主の真実(まこと)はそれほどに深い」(哀歌3・22,23)
です。
毎朝新しい主の恵みを受けて、それでも尽きることなく与えられる主の恵みの深さをおぼえて、新しい朝を迎えたいと思います。

フェルディナンド 竹内亮二

2020年の聖語です

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」
人生日々一瞬一瞬が選択です。イエス様の御旗の方を選んで往く。間違ったら選び直しがいくらでもできるのは、アサーティヴな私たちの権利。謝罪したら死ぬ病気にならない、相手の権利を侵害しない謝罪は有効。そう、誤っても後戻りできないという誘惑から自由になる。自分も他人も罪の鎖に緊縛し幽閉しない。
また1年共に参りましょう。
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