2010年2月28日日曜日

大斎節の勧め「人はパンだけで生きるのではない」

[さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑するものが来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。]マタイ福音書4章1-4節

「灰の水曜日」2月17日から、大斎節が始まりました。大斎は、私たちが自らの思い上がりや、偽りの装いを脱ぎ捨てて、神様の前に謙虚に立とうとする40日間の大切な季節です。
 同労司祭の話を聞いて、私は久しぶりに映画館に出かけました。映画館は30年以上も前に、まだ少し目が見えていた頃子供と一緒に見た「寅さん」以来であったと思います。そして映画は、今度も同じ山田洋二監督の「おとうと」で、懐かしい女優の吉永小百合のイメージを頭に描きながら、感動し、とても楽しむことができました。物語には、「人と命と生」を、そして隣人をも己に過信して、力で支配できることに執着しようとする人間の姿の、冷たさ、愛を見失うものの惨めさ、乏しさに対して、「命と生」は人間の力で支配できないことを、苦しみと戸惑いながら、認めようとする人の、温かさ、隣人への愛の喜びと豊かさを映画は見事に描いていたように思います。しかも、それは、私たちの現実の社会であり、ごく身近な、またキリスト者である自分自身の内なる正直な姿であることも感動させられました。笑福亭鶴瓶の演ずる「おとうと」の死に行く場面はしっかりと人には支配できない「人の死」が、決して闇と失望ではなく、別れと悲しみであっても、「永遠の命の希望」があることへと指し示してくれているのだと思えました。
 イエス様の復活の喜びの前に、受難と十字架の死がありました。イースターの喜びは、すべて人の救いを実現される復活の主に信頼して、「自分の十字架」を今日も負いながら、一歩一歩、しかもたどたどしく歩むキリスト者の喜びなのでしょう。
司祭 アンデレ 橋本克也

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